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ドラマ・映画「鈴木先生」から学ぶ、鈴木式教育メソッド

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先日、ドラマ・映画「鈴木先生」を観ました。

鈴木先生のクラスの生徒(中学生)には、いわゆる不良や問題児はいません。普通の生徒の集まりです。そんな普通の生徒であっても、実は問題を抱えています。

その問題を鈴木先生が一人で解決していくストーリー・・・ではなく、生徒たちに考える機会を与えるストーリーです。

そんな鈴木式教育メソッドには、名言も多く、いろいろ考えさせられることも多かったので、印象に残ったセリフをまとめておきたいと思います。

ドラマ「鈴木先生」の名言

まずはドラマ「鈴木先生」の名言から。

正しい行為ではなく、許されている行為

この項目、Google先生の規約違反になる可能性があるので、微妙なんですが、とりあえず警告がくるまでは掲載したいと思っています。伏字部分は脳内で補完してください。

避妊とは、そもそも〇〇〇〇から本来の目的である「子どもをつくる」という部分を切り取り、快楽だけを楽しむための技術に過ぎません。

(避妊具を)つければいい、という安易な避妊指導は、〇〇〇〇が単なる娯楽になり得るという事実を、子どもたちに教えてしまっているような気がするんです。

避妊はしない主義の鈴木先生の主張です。

私としては、この鈴木先生のポリシーに共感できる部分はあります。

「避妊具を使う」ことを子どもに教育することは、その行為に伴うリスクを下げると同時に、その行為へのハードルを下げることにもなり得ますよね。

「避妊することが当たり前」というこの世の中。「常識だから避妊する」のではなく、「なぜ自分は避妊するのか/しないのか」を自分の頭でしっかり考えることが大切なんだと思います。

ああだこうだ計算せず、ただひたすら純粋に求めあう。それこそが最高に美しく、道徳的な〇〇〇〇だと俺も思う。

ただそれには、それが叶う相手と環境と、そして自分自身の覚悟が伴わなければならない。

(避妊具を)つけてするという行為は、それらが揃わない者に、ただ許されているだけだ。そして、ただ許されているだけの者が、生でする者を罵倒したり、上からモノを言ったりすることは、全然道徳的ではないんだ。

そう、どちらかの主張が正しいわけではないんです。

“避妊具をつけてする”ことが許されているだけなんですよね。避妊しているから偉いわけではないんです。

今の学校教育を支える問題のない生徒

今の学校教育は、我々が普段思っている以上に、手のかからない生徒の心の摩耗の上に支えられてるんだ。

どんな生徒に対しても手が足りないなか、教師たちは結局、目立った問題を起こす生徒に多くの力を割かざるを得ない。

問題のない生徒は、恐らく潜在的に、問題児への嫉妬心を抱いているに違いないんだ。問題児の心の中に、優等生への妬みが存在しているのと同じようにね。

これは個人的にガツーンときたセリフでした。

「普通の生徒」も何ら問題を抱えていないわけではなく、自分の中に溜め込んでいるだけなのかもしれません。

思っていること、抱えていることを言葉や態度に表現するのが不得意な人間だっていますよね。

そもそも現在の学校教育の現場は人手が足りていないと思います。授業やテスト・プリント作成だけでなく、部活の顧問や学校行事、地域との交流、保護者への対応等、先生の仕事は山ほどあります。

ありとあらゆる業務をこなさないといけないなかで、すべての生徒へ平等に時間を割くことができるのでしょうか。あえて「問題のない普通の生徒」に時間を割くことができる先生がどれくらいいるのでしょうか。

そんな環境のなかで、鈴木先生が「生徒同士が自由に意見を言い合い、生徒たちが課題・問題を解決できる教育」を作り出そうとしたのは、すごいことだなと思いました。

現実はドラマみたいに甘くはないと思いますが、それでもこういう考え方は大事にしていくべきなんだと私は思いました。

まわりの価値観との共有を一生懸命探る

僕がこれから向かうのは討論の場です。

話し合いというのは、お互いが不完全な材料を持ち寄って、お互い気づけずにいたことに気づき合い、なにかを発見する場のはずです。

はじめから結論を用意して持ち込むわけにはいきません。

鈴木先生が「できちゃった結婚」をすることに対し、生徒は鈴木先生を被告として、学級裁判をすることに。学校では避妊、避妊って言ってるのに、先生ができちゃった結婚っておかしくね!?という生徒側の主張ですね。

その学級裁判の場に向かう前に、職員室の先生から「こういう対応をして無難に事を納めましょう」という提案をされます。

しかし、鈴木先生は上記のように、結論ありきの討論はしないという主張を展開します。

他者を批判することで、自らを正当化する者のなんと多いことか

自分の意見を押しつけようと躍起になり、相容れない意見は、相手の人格までも否定する者のなんと多いことか。

こいつらは、そんな大人たちの何倍もすごい。

「討論=相手を打ち負かすこと」のような考え方の人は結構いますよね。私も話し合いの場になると、ついつい「自分の意見を通すこと」に注力するところがあるので、耳が痛い話です。

人それぞれ考え方や主張は異なっていて、それらを共有し、考え、ブラッシュアップしていくことこそが討論の本質なんだと思います。

現代は多様性の時代と言われている。だが果たしてそうだろうか。

確かに様々な価値観を自由に選択することが、許されてはいる。

しかしその結果、ひとりひとりが自分に都合の良い意見に閉じこもり、他人の異なった意見に耳をかさない

個々の胸の中は、結局、偏った考えに凝り固まって貧しくなっているんじゃないだろうか。

ひとりひとりがたくさんの価値観を胸に抱き、面倒で苦しくても、向き合い、葛藤し、まわりの価値観との共有を一生懸命探れば、僕らには別の道が開けてくるはずなんだ。

このセリフがドラマ「鈴木先生」のテーマをまとめたものだと思います。

“まわりの価値観との共有を一生懸命探る”、この考え方は歳を重ねるごとに薄れてしまう気がするので、忘れずに心に留めておきたいですね。

映画「鈴木先生」の名言

続いては映画「鈴木先生」の名言です。映画は生徒会選挙と社会から居場所を奪われていく人々を主軸としたストーリーとなっています。

演じてみるといい

みんなはこの先、社会に出て世の中を知る。それは思っていたほど良いものじゃないかもしれない。

嫌な上司もいるだろう。もしかしたら、落ち込んで、自分自身を見失うこともあるかもしれない。

そんなときは演じてみるといい

俺は教師という役を演じてる。

演じてるうちに、自分と役との境界線がなくなってくる。自分自身を成長させる1つの手法なんだ。

そう、この世の中は各々が役割を演じることで成り立っている部分もあるんだ。それに嫌な上司もまた、嫌な上司を演じているだけかもしれない。

クラスで行う演劇について語る鈴木先生。

大人になって、社会生活を営む上で「演じる」ことってめっちゃ大事ですよね。

会社で内勤している自分、顧客と接客する自分、家族と過ごす自分、友達と遊ぶ自分、それぞれの場面で態度や話し方は結構違うはず。

でもこの違いは多重人格というよりも、それぞれの場面に合わせた仮面のようなもの。ペルソナァ!

その仮面によって、自分を良く見せたり、悪く見せたりすることもできます。自分に有利になるような仮面や、自分を守るための仮面を作ることもできるわけです。

自分の頭で考え、自分の意思で投票する

選挙というのは、人間関係やしがらみで投票するものではない。また、他人にそれを強要したり、そういう雰囲気をつくることもいけないんだ。

自分の頭で考え、自分の意思で投票する

その一票は他の誰でもない自分自身が責任を負う一票だからだ。

これについては、Twitterでも触れたんですけど、

今、日本の選挙の投票率って低いじゃないですか。

それは政治に参加する権利を放棄しているの同義だと思うので、誉められたことではないおと思うんですよ。

でも、じゃあ強制的に投票するような制度を作った場合、人の意見に流される層が適当に投票して、結果的に思いもよらない悪い状況が生まれることもあるんじゃないかって思っちゃったんですよね。

やっぱり投票率云々の前に、「自分で考えること」を大事にしないといけないなと。

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自信を持ってお勧めできる作品です。