「この料理の原価は50円なのに、値段が500円もするなんてボッタクリだ」
のような主張をされる方がいらっしゃる。
このような人を見る度に、「それって原価じゃなくて食材料費だよね?」ってツッコミを入れる。ついでにいえば、調理という労力が軽視されているようで悲しい気持ちになる。
原価とは
原価とは、
一般に、商品やサービスを生産するためにかかったもともとの金額。または仕入の金額。費用やコストに近い意味で用いられるが、売上に対応する費用としてこの言葉が用いられる。通常、商品やサービスはこの原価に一定の利益を加えた金額で販売される。
ものである。
例えば「料理」という商品を作るには、
- 食材
- 食材を調理するための人
- 食材を調理するための機器、水、電気
などが必要になる。どれが欠けても「料理」は完成しない。
つまり料理の原価は、
- 食材料費(食材にかかる費用)
- 人件費(人にかかる費用)
- 経費(機器や光熱水にかかる費用)
から構成される。さらにいえば、その料理を販売するための費用だって必要だ。この辺の費用を全部ひっくるめて原価だ。
だから「この料理の原価(食材料費)は50円なのに、値段が500円もするなんてボッタクリだ」なんていう理論はまかり通らないのだ。
そのような理論を展開する人は、スーパーで買った玉ねぎを丸かじりしていればいいと思う。
なぜか料理が目の敵にされる
この原価の誤用によるボッタクリ論は、こと料理に関してだけ使われる傾向にある。
例えば、書店で販売される本について「紙の原価は~」という話は聞かない。
それは多分、本を作るには紙だけでなく、執筆者や編集、レイアウト、デザイン、印刷にお金がかかっていることを想像できるからだろう。
ではなぜ、料理に対してその想像力が働かないのか。
料理を作る=無償の愛?
私が思うに、料理を作るという行為が労力と思われていないのではないかと思う。
この世に生を受けてから食べる料理は、幼児期~思春期の長い期間、母親(保護者)が作ってくれる傾向にある。
子ども時代に、母親と一緒に買い物をしたときに食品の値段こそ見ても、毎月の光熱水費を見る機会は少ないだろうし、まして母親の調理作業に賃金が支払われている光景を目にすることは、ほぼないだろう。
そんな子どもも一人暮らしをするようになり、自分で料理をしなければならない環境に追い込まれると、母親のありがたみを実感できるようになる。しかし、一人暮らしで自炊をがんばったとしても、節約にこそなれど自分にお金が入ってくることは無い。
このような体験から、多くの人に「食材を料理に変えること(調理)は、無償で行われるべきもの」という認識が刷り込まれているのではないだろうか。
料理を作る=有償の愛
料理を作るってことは、残念ながら無償の愛ではない。それ相応の対価が発生するべき価値のあるものだ。
でも安心して欲しい。無償ではないけれども、料理をする人は基本的に、食べてもらう人(喫食者)のことを考えて作っている。それは家庭でも、飲食店でも、給食でも一緒だ。
だから飲食店ではその価値に見合うだけの代金を支払う必要があり、家庭であれば感謝の気持ちを込めて「いただきます」「ごちそうさま」をいう必要があると私は考える。