高校の現代文の先生は石飛先生という50代くらいのおじさんだった。
現代文という科目に特別な思い入れもないし、申し訳ないが石飛先生の授業がおもしろかったわけでもないので、十数年経った今、授業の内容や雰囲気を思い出すのは難しい。
ただ、強烈に覚えている言葉がひとつだけあり、それが
「飛(とび)って動詞だろ?」
なのだ。
名字に動詞的な漢字
石飛先生の主張はこうだ。
- 私の名字は「石飛」である
- 名字に「飛ぶ」という動詞的な漢字が使われているのって珍しいよな?
授業中、どういう経緯でこんな話になったのかは覚えていないが、妙に納得した記憶がある。
「飛」という漢字が本当に動詞なのかはさておき、イメージとしては動詞だ。歩く、走る、泳ぐ、食べる、寝るといった動作を示す漢字である。
しかも石飛先生の言う通り、動詞的な漢字を名字に使うことは珍しいような気がする。今までの人生を振り返って、過去に関わりのあった人達を思い浮かべてみても、動詞的な漢字を名字に冠する人物がパッと出てこない。
そういえば、この話をしている石飛先生は妙に誇らしそうにしていた記憶がある。先生は、石飛という特別珍しくもなさそうな名字の「飛」という漢字に、アイデンティティを見出したのだ。
こういう感覚は現代文の先生ならではの発想である。
変わった名字より、説明しやすい名字
よく“変わった名字に憧れる”という話を聞くが、それも自分の名前に個性を欲するからなのだろう。
でも、最近よく思うのが変わった名字より、「(音だけで)説明しやすい名字」が良いと思う。これは社会人になってから、電話越しに相手の名前の漢字を伺がう機会が増えたからだ。
ごく一般的な名字や、わかりやすい漢字で構成される名字はすぐに分かるのだが、時々曲者に遭遇することがある。
市來(いきち)さんや嘉本(かもと)くんとかは、なかなか難易度が高い。あと斉藤さんと渡辺さんのバリエーションの豊富さは勘弁して欲しい。
自分の名前をわかりやすく説明できると美しい
とはいえ、名前というのは生まれ持った個性みたいなもので、生後に変更する機会というのはあまりない。
なので、自分の名前を音だけでわかりやすく説明できるようになっておくと、何かと便利だと思う。
例えば上田由美の場合、「上下の上に田んぼの田で上田、自由の由に美しいで由美です」といった具合だろうか。
他のパターンとして、「伊藤博文の伊藤です」のように有名人の名前を挙げるパターンがあるが、これはチョイスが意外と難しい。なぜなら、相手の知識レベルによっては伝わらないからだ。
伊藤博文や織田信長のような一般教養レベルの歴史上の人物、または中居正広や志村けんなどの露出の多い芸能人ならほぼ間違いなく伝わると思う。
ただ、歴史上の人物はともかく、人気のある世代が分かれる芸能人などは、存外伝わらないので注意した方がいい。もし私が電話相手なら、エグザイルやAKBグループ、ジャニーズ系の人物を挙げられても、名前の漢字はさっぱり浮かばないと思う。
飛って動詞だよ
「飛」は動詞なのだ。石飛先生の主張は正しい。
なので石飛先生には、自分の名前を説明するとき、
「ストーンの石に、I can flyの飛ぶ、動詞の飛ぶで石飛です」と説明して欲しいと思う。